2012年1月16日月曜日

テクノロジーと宗教のある風景

雑感です。
今日、就活生ぽい子が隣にいて、iPadで企業ページを見てたりしていたので、
「ほほう、そういう時代かぁ」
と漠然と思って見ていました。
するとその子がiPadを片付けて次に宗教系の新聞を出し、おもむろに読み始めました。
「おお、そういう時代かぁ」
と思ったんです。で、それをツイートしたところ、ある人から、
『そういう時代ってどういう時代?』
と聞かれました。

はて、たしかにどういう時代と言いたかったのだろうかと、改めて考えました。
考えてみたところ、表現がうまくなかったことに加え、考えが足らなかった。
そのツイートを心情に即して捕捉すれば、
『先進的テクノロジーを使って就活している一方で、社会的情報は宗教のフィルターを通して得ている』ということにどこかしらアンバランスな面白みを感じたのです。

先進的なツールは時代の精神を表します。そのツールを使う以上は、それに対する共感みたいなものが少しでもあると思います。例えばテレビが出てきたときに、やはりそれを使う以上は従来のラジオでは得られなかった「何か」を得ようと考えるわけです。その「何か」(具体的には映像でしょうが)がテレビというツールに存在するという認識を持って、テレビを使う。
iPadというツールを使う人に対して僕がイメージする社会的姿勢は、歴史感ある宗教とまったくイメージとして重なるものが僕の中になかったためにアンバランスに感じたのです。

有り体に言ってしまえば、
『iPadとか流行モノ使ってるわりに社会のことは宗教でとらえるのか、変なの』
という、偏見にもとづいたイメージ先行のツイートなのでした。
さらに語感の良さだけで言葉を選んでしまっていた。

まぁ、恥ずかしい、情けない話ですね、ということです。
米国ではおそらく当たり前のことでしょうし、そうした風景が日本にあるのもまた当たり前のことなのでしょう。これだけiPadが売れていて、そして宗教もたくさんあるわけだから、言うなればベン図の重なる部分は多いはずで。

結局、ツールと思想は別物です。
何を使っていても、どんなフィルターで社会を見ても良いわけです。至極当然。

おまけですが、そういえば『Apple信者』とも言いますね…。
キリスト教(が主)の国で、一神教的なブランドが生まれたのも何か通じるものがあるのかもしれません。

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