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2013年10月7日月曜日

SNSと「自分」

Facebookがインフラになる一方で、やはりそうしたSNSに違和感を覚えて使わない人もいます。使わない理由は人それぞれでしょうが、プライバシーなどは最もよく聞く理由のひとつかもしれません。ちなみに僕自身はTwitterもFacebookも活発ではありませんが利用します。
さて、SNSを利用しない友人と話してて、少し興味深い話があったのでメモっておきます。

友人がSNSに違和感を覚える意見が、
「(リアルな)自分とは別の存在として、しかしあたかも他人にとっては自分であるかのように振舞う存在があるのが嫌」
というもの。
つまり「今日は気分が悪い」とかいう日々の気持ちの移り変わりがあったりして、「動的な存在」であるが、ネット上のアカウントはそうしたものに影響を受けない「静的な存在」であり、そうした静的存在が自分のあずかり知らぬところで「自分」をアピールするのが気味悪いということです。

なるほど、と思いました。
例えば、ネット上でのプロフィールに「◯◯という仕事をしており、将来は各国の架け橋になりたいです」なんて書いてたりすると、僕がたまたま「今日はしんどい、架け橋なんてどうでもいい」と思っていても、ネットでそのプロフィールを見た人は「なんてやる気のある人なんだ〜」というようなことを感じたりするわけです。その不一致が気持ち悪いというのも理解できます。
もちろん、しんどいときに代わりにPRしてくれるのであれば、それはメリットでもあります。使いかた、感じ方は人それぞれ、という当然の結論ですが、いわゆる自己同一性みたいな概念はSNS全盛の今どのように考えられるのか、専門家の話を聞いてみたくなりました。

これに関連して、WIREDに面白い記事が。
匿名性と実名性:「ネット上の人格」を考える

2012年8月25日土曜日

Summer Sonic 2012 感想

サマソニ2012行ってきました。
私が行ったのは東京会場、18日(土)のみです。

サマソニは2回目の参加。一回目は18の頃、サマソニ2000(第1回)@大阪にて…どんだけ昔なんや。そのときは初めてTahiti 80見たり、そのころハマってたBen Folds Fiveで盛り上がったり。懐かしいですね。 後で知ったのですが、このときのサマソニがSigur Rosの初来日。全然知らんかったです。まぁ高校生ですもんね…。まだ賑やかな音楽が好きな時期でした。

で、今回12年ぶりのサマソニ。サマソニに出るミュージシャンはR&Bや、ロック、ラウド系が多いので敬遠していましたがSigur Rosが出るということで1日券で行きました。
見た順に備忘録つけておきます。

1. GRIMES

SONICステージ。初めて聞いたんですが、ボーカルが面白いことしててわりと好きな音でした。ただどこか「ティーンアイドル臭」がしてグッとは来なかったです。

2. St. Vincent

続けてSONICステージです。グッと来ました。これはかっこいい。ギターエフェクタが変です。でもキレてます。
今回一番の掘り出し物でした。

3. 吉井和哉

SONICステージからパラパラ雨の中、遠路マリンステージまで。東京会場初めてなんですが遠いですね…。
さて、吉井和哉は懐かしのイエモン曲、SPARKから始まりノスタルジック。
途中で大粒の雨が降ってきてたまらず2階席から3階席へ移動。でも雨は容赦なく振りこんできます。避難してる人もけっこういましたが、アリーナはずっと盛り上がってましたね。ラストはJAM。さすがに、グッと来ました。

4. DEATH CAB FOR CUTIE

Mountainステージ。このあたりまで来ると老体ゆえに疲れが出てきていました。まだ4つ目なのにねw
デスキャブは好きなので出来る限り聞きたかったのですが、ギブアップして寝ながら聞いてました。しかしThe New Yearが流れるとテンションあがって前の方へ。終わったらまた下がりました。やっぱ安定の演奏、良曲。さすがデスキャブです。

帰り道、中国から来たバンド MERCY&SORROW をアイランドステージで見ました。サマソニのウェブサイトに載っていた音源はシューゲイザーぽくてちょっと良いかもと思ってたのですがライブはいまいち…。

5. Sigur Ros

さてさて、ついに本命です。このために一日券15,000円払ったといっても過言ではない。
Mountainステージは超満員。予定開演時刻を少し過ぎて始まりました。
1曲目はイントロ?のような曲。アルバムには入ってないように思います。
2曲目はValtariからVarud。いきなり盛り上げていきます。
今回のステージは本当にずっと飛ばしてました。
いくつか載せておきます。
Ágætis ByrjunからはViðrar vel til loftárása
Svefn-g-englar

など。

Takkからも。
Glosoli
Hoppipolla

など。まだまだ他にもたくさん演ってくれましたが、轟音系の有名な曲ばかりを続けて演奏。息つく暇がない。
ベストアルバムが出るとしたら、まんまこのレパートリになるんじゃないかというくらい。
ただただ、圧巻でした。

ラストはお決まりの、( )からPopplagid。
 

ほんとSigur Rosは最高です。プライスレス。

自分もバンドをかじったこともあるので、思うのです。たかだか4人くらいの編成でこれだけ皆違う音を出せるって、すごいなと。 そんなことを感じたフェスでした。

2012年7月18日水曜日

デザイナーがクライアントとのコミュニケーションで困ること

某大学医学部のシンポジウムポスターを作っています。
何回も先方とやりとりしてるんですが、「デザイナーがクライアント(特に大学関係)とのコミュニケーションで困ること」がいっぱいです。
はい、正直今回は愚痴です。すみません。まだまだ「仕事の進め方」がうまくないのでこんな状況になるんだとは思いますが、良かったらご一読ください。

1.「目立つようにしてほしい」

まずはこれですよ。なんか知らんが、とにかくでっかく、目立つようにしてほしいと言われる。
「全部でっかく、目立つようにしてしまうと、どれが重要かわからなくなりますので〜」とか言って回避してますが。どれだけ先方が納得してくれてるのか不明です。

2.「白いところが多い」

これもよく言われます。余白恐怖症。わかります、けどね。これは先方に意図を説明しにくいです。「こちらのほうが見やすいと思うんですが…」というようなことしか言えないです。うまくないですね。

3.テキストが後から変わりまくる

特にポスターなどでは、テキストはデザインの重要な要素です。文量が変わればデザインも最初から変わります。最初に「これで全部ですよね?」って聞いて「はい!」と言われたのに、なんで最初の3倍くらいのテキストが詰め込まれてるんですか?
でも、これは仕方ない、とは思います。シンポジウムですからね、関係各位からの情報が色々変わっていきます。

4.前回打ち合わせで言ったことを忘れて、元に戻そうとする

色変えろって言いましたよね、前回。で、また元に戻すと?
そういうの、よくあります。ここはもうニッコリ笑顔で「はい、承知しました〜」と言うしかないですね。

5.見慣れたデザインから離れられない

テキストが増えたりすると、イチからデザインをやり直したりしますが、そのときに見た目が大きく変わってると拒否反応示すんですよね。メールでデザイン提案してるので、デザインを新しくしたときに意図をうまく伝えられない、ということが原因のひとつだと思います。文章力のなさ、ですかね。
デザインがあまり変わらないままテキスト等が追加されていくので、「どれだけ拒否反応を示さずに、ちょっとずつ整理していくか」みたいな変な仕事になってきます。

僕はまだまだデザイナーとは呼べない代物なので偉そうには言えませんが、次仕事するときは上記のようなことはなるべくスムースに進められるようにしたいものです。。。

2012年5月17日木曜日

レイチェル・カーソン著「沈黙の春」読了

レイチェル・カーソン著「沈黙の春」読了。殺虫剤や農薬による環境への影響を豊富な資料から考察した名著(オリジナルは1962年出版)。
文章量が多く、読後の感触としては、ひたすら執拗に化学薬品の怖さを書き連ねる、少々しんどい本。 多くの化学薬品による悲惨な事例は50年代前後の米国なので、いま現在日本にいる私にはそこまでの実感は少ない。それもあって、しんどい本であった。

しかしそこまで書かないといけない状況だったのだろう。
また、(こういう名著のお決まりかもしれないが)最後に「本書は、すでに古典としての地位を確立したが、その間サイエンス、哲学の大胆な転換は行われず、本書の存在は現代にあってますます切実なものとなっている。」とある。

2010年は「国際生物多様性年」とされ、学術誌もそういう論文が多かった。また関連イベントも多く開かれ、「生物多様性」はいろんなところで扱われた。
カーソンが本書を執筆した時代に比して、現代は生態系の知識は格段に増えている。何かの種を根絶やしにするというアイデアは、フィクションの中であっても「時代遅れ」な感がある。しかし、原発問題などそれでも人間の営みには生態系へ影響するものが多い。(というか、広い意味では生態系とのインタラクションが生きるということかもしれない、程度差はあれど。)何をやっても、どこかに影響はある。その影響が生態系のなかで吸収できるものなのか否か。人間の営みの持つ「業」みたいなものを感じさせられた本であった。

2012年4月30日月曜日

Facebookで1万人以上がシェアした科学と信仰のある風景


Facebookで1万人以上が「いいね」したりシェアしているテキストがある。割と長いんだが、読んでみてどうも違和感があったので、それが何故か考えてみた。

まず、そのテキストを簡単に訳してみる。長いので知ってる方は飛ばしてください。
シチュエーションはヨーロッパのどこかの大学での授業で、教授と学生の問答です。

===意訳ここから===
教授:君はクリスチャンかい?

2012年3月7日水曜日

原発危機と「東大話法」 読了

『原発危機と「東大話法」』一気に読んでしまった。
http://www.akashi.co.jp/book/b98895.html

原発問題を主軸にしているが、それは著者の「東大話法」という考えを説明する(重大な)例である(その話法が東大に多いというだけで東大のみで見られるというわけではない)。所々ひっかかるところはあるけれど、我が身振り返って考えさせられる内容だった。僕もその話法を使っている。どの領域にしろ、「専門家」になることがその話法を学ぶことだとしたら、いま僕は何になろうとしているのか。それらしい言葉を並べ立てる人間になって、何をしようというのか。「専門領域」にどっぷり浸かっている自分自身への欺瞞に気づく本。

「立場」を主軸にした展開は納得できる。誰のためにかわからないような仕事を身を粉にして続ける人は多い。
しかし、それが高度に発達した社会というものかもしれない。回りまわって経済が成り立っているなら局所的には目的のわからないこともしなければならないということかも。でもそれによって原発危機が引き起こされるなら、やはり立場のためだけに働いてはいけないのだろう。

しかしこの話法がここまで浸透しているからには、それなりの理由があるはずで。思うに、その話法を使用することで領域内のコミュニケーションは簡便になる。言語のもつ根本的なコミュニティ形成力(諸国の言語、世代の言語、仲良しグループのあだ名、etc)は便利で非常に有効だが、簡便さと引換に「真実へのしがみつき」を失ってはならないということだろうな。
何にせよ高等教育機関で行われていることが、結局「話法の形成」にしかなっていないなら何のための教育か。

2012年1月16日月曜日

テクノロジーと宗教のある風景

雑感です。
今日、就活生ぽい子が隣にいて、iPadで企業ページを見てたりしていたので、
「ほほう、そういう時代かぁ」
と漠然と思って見ていました。
するとその子がiPadを片付けて次に宗教系の新聞を出し、おもむろに読み始めました。
「おお、そういう時代かぁ」
と思ったんです。で、それをツイートしたところ、ある人から、
『そういう時代ってどういう時代?』
と聞かれました。

はて、たしかにどういう時代と言いたかったのだろうかと、改めて考えました。
考えてみたところ、表現がうまくなかったことに加え、考えが足らなかった。
そのツイートを心情に即して捕捉すれば、
『先進的テクノロジーを使って就活している一方で、社会的情報は宗教のフィルターを通して得ている』ということにどこかしらアンバランスな面白みを感じたのです。

先進的なツールは時代の精神を表します。そのツールを使う以上は、それに対する共感みたいなものが少しでもあると思います。例えばテレビが出てきたときに、やはりそれを使う以上は従来のラジオでは得られなかった「何か」を得ようと考えるわけです。その「何か」(具体的には映像でしょうが)がテレビというツールに存在するという認識を持って、テレビを使う。
iPadというツールを使う人に対して僕がイメージする社会的姿勢は、歴史感ある宗教とまったくイメージとして重なるものが僕の中になかったためにアンバランスに感じたのです。

有り体に言ってしまえば、
『iPadとか流行モノ使ってるわりに社会のことは宗教でとらえるのか、変なの』
という、偏見にもとづいたイメージ先行のツイートなのでした。
さらに語感の良さだけで言葉を選んでしまっていた。

まぁ、恥ずかしい、情けない話ですね、ということです。
米国ではおそらく当たり前のことでしょうし、そうした風景が日本にあるのもまた当たり前のことなのでしょう。これだけiPadが売れていて、そして宗教もたくさんあるわけだから、言うなればベン図の重なる部分は多いはずで。

結局、ツールと思想は別物です。
何を使っていても、どんなフィルターで社会を見ても良いわけです。至極当然。

おまけですが、そういえば『Apple信者』とも言いますね…。
キリスト教(が主)の国で、一神教的なブランドが生まれたのも何か通じるものがあるのかもしれません。

2011年2月14日月曜日

Facebook

使い始めました。
しかし、どうにも慣れない…。

Twitterに慣れてしまうと、
「友達かもしれません」とか、
見つけたいときに見つけるし、という気分。
TLに内輪だけで楽しむような、
(だいたいにおいて不要な)情報が多くなって特にいつも見ていたいという気にもならない。
メアドだけでつながっているような、
微妙に疎遠な人たちも候補に出てきて微妙な気分にもなる。

実名主義はそれはそれで価値はあるんやろうけど、
小学校であったような「みんなと友達になりましょう」的な
雰囲気がなれない。

そんなこんなも、時間が経てば慣れるんだろうけど。