2012年4月30日月曜日

Facebookで1万人以上がシェアした科学と信仰のある風景


Facebookで1万人以上が「いいね」したりシェアしているテキストがある。割と長いんだが、読んでみてどうも違和感があったので、それが何故か考えてみた。

まず、そのテキストを簡単に訳してみる。長いので知ってる方は飛ばしてください。
シチュエーションはヨーロッパのどこかの大学での授業で、教授と学生の問答です。

===意訳ここから===
教授:君はクリスチャンかい?
学生:はい。
教授:では、君は神を信じるかね?
学生:もちろんです。
教授:神は善か?
学生:そうですね。
教授:神は全能か?
学生:はい。
教授:私の兄弟はガンで、治るように神に祈ったが、死んだ。我々は病気の人を助けたいと思うものだ。では神はどのように善なのだろうか?
(学生は黙った)
教授:君は答えられないね。もう一度始めようか。神は善かね?
学生:はい。
教授:悪魔は善か?
学生:いいえ。
教授:悪魔はどこから来たか?
学生:うーん、神かな…
教授:そのとおり。では教えてくれ、この世界に邪悪は存在するか?
学生:はい。
教授:邪悪はどこにでもあるね。そして神はすべてを創りたもうた、そうだね?
学生:はい。
教授:では、誰が邪悪を創ったのか?
(学生は答えない)
教授:病は存在するか?不道徳は?憎しみは?醜さは?これらすべての恐ろしいものは世界に存在するね?
学生:はい、その通りです。
教授:では、誰が創ったのか?
(学生は答えなかった)
教授:科学は世界を規定し、観測するために五感があるのだ。教えてくれ、君は神を見たことがあるか?
学生:いいえ。
教授:神を聞いたことはあるか?
学生:いいえ、ないと思います。
教授:しかしまだ君は神を信じるのかね?
学生:はい。
教授:経験的で、検証可能で、実証可能な方法によって、科学は君の神は存在しないと言っている。それについて何と答えるかね?
学生:何も。私は信仰があるだけです。
教授:そう、信仰だ。それが科学の持つ問題なのだよ。
学生:先生、「熱」のようなものは存在しますか?
教授:そうだね。
学生:では「冷たさ」のようなものは?
教授:もちろん。
学生:いいえ、先生、それは存在しません。
(教室が静かになってきた。)
学生:先生はたくさんの熱を持っています、もしくは、より大きい熱、過剰な熱、巨大な熱、白熱状態、もしくは少しの熱しかないか、何も熱がない状態です。しかし、「冷たさ」と呼ばれる存在はありません。ゼロから458度まで刻むことはできますが、それ以上の熱はありません。冷たさというものはないのです。冷たさは、私たちが熱のない状態を指した言葉でしかありません。冷たさを測ることはできません。熱はエネルギーです。冷たさは熱の反対ではなく、エネルギーがないということなのです。
(教室は静まり返った。)
学生:暗闇についてはどうですか、先生?暗闇のようなものは存在しますか?
教授:存在する。暗闇のない夜とは何かね?
学生:あなたはまた間違えました。暗闇は何かがない状態です。少しの光、通常の光、明るい光、閃光はあります。しかし、もし何も光がないときは、それは何もないのであり、それを暗闇と呼ぶのではないですか?実際、暗闇は存在しません。もし存在するならば、より暗い暗闇を作ることができるのではないですか?
教授:君は何が言いたいのかね?
学生:私は先生の論理の前提が崩れた、と言っているのです。
教授:崩れた?どうやって説明できるんだ?
学生:先生は二元性という前提で議論しています。先生の議論では、生があり、そして死がある、良い神があり、悪い神があるということになります。先生は神の概念を有限なもの、測ることができるものと見ています。科学は思考を説明することはできません。科学は電気や磁気を使いますが、見えるものではなく、どれひとつとして完全に理解はできません。死を生の反対と見ることは、死が実質的なものとして存在しえないという事実を無視することになります。
死は生の反対ではないのです、生がないことなのです。では、教えてください、先生、あなたは学生がサルから進化したことを説明しますか?
教授:君が自然な進化プロセスについて言っているなら、そうだね、もちろん私は説明しよう。
学生:先生はその目で進化を観察したことはありますか?
(教授は微笑みながら頭を振った、それは議論がどこに向かっているのか気づいたようだった)
学生:誰も進化のプロセスを観察したことはありません、そしてこのプロセスが現在進行中なのかも証明できません。それでも先生はその意見を教えることができますか?あなたは科学者ではなく宣教師なのですか?
(教室に笑いが起こった。)
学生:クラスの中に先生の脳を見たことがある人はいる?
(教室は大笑いになった。)
学生:先生の脳を聞いたことは?それを感じて、触ったり、嗅いだりは?だれもいなそうですね。そうです、確立された経験則や、普遍の、実証可能な方法に従うならば、科学は先生に脳がないと言うことになります。同じ観点で言えば、私たちは先生の講義をどのようにして信じればよいのでしょうか?
(教室は沈黙した。教授はその学生をじっと見た。その顔は何とも言えない表情だった。)
教授:信仰、と言いたいのかね?
学生:そうです、その通りですよ!人と神のつながりは信仰です。それがものを生かし、動かし続けるのです。

追伸
この記事を楽しんでくれただろうと思う。もし楽しんだなら、友達や同僚にも楽しんで欲しいよね?
友達の知識…もしくは信仰を高めるためにこれを広めよう。

ところで、この学生というのがアインシュタインだったんだ。
===意訳ここまで===

さて、どう思いましたか?
Facebookでは「すごくいい話」とか「あたまいいね」とかコメントが付いていました。

しかし違和感をもった人もいるのではないでしょうか?僕は違和感がありました。それが何故か考えてみたところ、以下の点が気になりました。

論点がすり替わっている

信仰を存在の問題にすり替えた、それが教授の誤りです。最初に教授は「信じるかね?」と問いますが、途中から「存在するか?」に質問が変わります。つまり、「存在しない」ものは「信じられない」と言っているのです。そして、その存在するかどうかが「観測、実証」できるかどうかの問題になります。信じられるかどうかが、観測できるかどうかに拠っている、それが教授の論理です。
さらに、観測手法として「五感」を持ち出したことも誤りです。教授は五感で「神」を認識することはできないので存在しない、と言っています。教授の誤りをまとめると、
  1. 「信仰」を「存在」の問題にした
  2. 「存在」は五感で「観測」できるとした
学生はこれに対して以下を例に出します。これらは反論として別物です。
  1. あると思っていても実際には存在しない概念:冷たさ、暗闇、死
    これらが「ある」と思うのは、「信仰」と同じ
    → Aへの反論
  2. 五感で認識できないが、存在する事象:電磁気、(解剖すれば五感でも認識できますが)脳、進化
    → Bへの反論
aはAへの反論ですが、「冷たさ」という言葉が示す状態は、連続的な状態のある一点であり、その言葉が示す状態が確かに存在します。温度は連続的ですので、低い高いは言えますが、冷たさがあるかないか、という言い方はおかしなことになります。しかし、「神」という言葉は連続的な状態を示すのではなく、有無という2択しかない個の存在です。もし学生の反論に照らし合わせるなら、「神がゼロである」「神がちょっとある」「神が多くある」「神がかなり多くある」という状態があるということになります。それはおかしいですよね。
結局、冷たさは有無で語ることはできない(それを「ある」と言ってしまったがために教授は誤った)が、その意味する状態は存在します。一方、神は有無で語ることはできますが、その状態は存在しません。性質の異なる概念を、「ある」「ない」という言葉で同じステージで語ったのです。
このように、教授は「信仰」の問題を「存在」の問題にすり替え、それに対する学生の反論も「言葉」の問題を「存在」の問題にすり替えてしまっています。問題をすり替えたという点で、同じ構造の誤りをしているのです。
Bは明らかな誤りです。従って反論bは妥当です。(進化が存在するかどうかは議論の余地がありますが、本筋から離れるので触れません)しかし、bの反論が当然すぎて、aの反論まで「正しい」かのような印象をあたえるテキストになっており、混乱を招きます。

追伸の "increase" が非常に気に入らない

ここまで書いて何ですが、上の議論は、はっきり言えば私にはどうでもいいのです。テキスト本文だけでしたら、「おかしな感じだけどまぁいっか」と思ってブログには書きません。
しかし、最後の「追伸」がどうにも引っかかったのです。科学が「神の存在」を扱うことはできません。その意味では教授は持ち出すトピックを誤ったと言えます。科学は信仰について何も説明できない、そんなことは当然です。ただ、オチにあるようにアインシュタインが生きていた時代なのであればこういう問答があったとしても理解できる余地はあります。
しかし、それが2012年現在、どうして追伸に書いてある「信仰を高めるためにこれを広めよう(原文:Forward this to increase their knowledge … or FAITH.)」となるのか?科学が神を説明できないという事実が、信仰を高めることにつながりますか?
科学と信仰という別の問題が二元的に語られる点で、この追伸も本文と同じ誤りを犯しています。(本文の誤りがわからないなら、追伸の誤りもわからない、という意味ではこのテキストの筆者は筋は通っています)
個人的には信仰と科学がまったく別物であると、なぜ心の底から思えないのか不思議です。信心深い科学者なんて、それこそ枚挙にいとまがありません。彼らの中では何も不合理は生じていないのです。科学は信仰を弱めるものでも、強めるものでもありません。
私には、追伸に科学 vs 信仰という図式が感じられます。むしろテキストではそのような図式を持ち出す教授の誤りを、学生が(一応文章上は)論破しています。私としては、科学と信仰は別物です、はいそのとおりです。だから何?という感じです。テキストから何を発見して、「これを読んで信仰を高めよう」となるのか?よくわかりません。ですので「科学のことは放っておきましょうね。あなたの信仰はそのままでいいのですよ。」が追伸に来るなら構いません。なぜここで"increase"という単語を使えてしまうのか、それが気に入らないわけです。
ただ、おそらく、(事実は別として)「科学が宗教を駆逐した」という感覚が裏にあるように思います。そしてこの感覚には古臭い「科学万能主義」が隠れています。科学は何でも説明できる、という古典的な感覚の裏返しとして、科学で説明できなくても安心して信仰を持っていていいんだよ、と言いたいテキストのように思えます。もしかしたら、科学万能主義は潜在的には未だ根強くあるのかもしれません。このテキストが1万人以上にシェアされていることから、そんなことを感じました。

以上が僕の感想ですが、もっと言語学とか論理学とかの方ならば明瞭な言葉を使って分析できそうな気がしますし、僕の話の進め方に不備があるかもしれません。が、思考の足跡としてここに残しておきます。

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