2012年3月7日水曜日

原発危機と「東大話法」 読了

『原発危機と「東大話法」』一気に読んでしまった。
http://www.akashi.co.jp/book/b98895.html

原発問題を主軸にしているが、それは著者の「東大話法」という考えを説明する(重大な)例である(その話法が東大に多いというだけで東大のみで見られるというわけではない)。所々ひっかかるところはあるけれど、我が身振り返って考えさせられる内容だった。僕もその話法を使っている。どの領域にしろ、「専門家」になることがその話法を学ぶことだとしたら、いま僕は何になろうとしているのか。それらしい言葉を並べ立てる人間になって、何をしようというのか。「専門領域」にどっぷり浸かっている自分自身への欺瞞に気づく本。

「立場」を主軸にした展開は納得できる。誰のためにかわからないような仕事を身を粉にして続ける人は多い。
しかし、それが高度に発達した社会というものかもしれない。回りまわって経済が成り立っているなら局所的には目的のわからないこともしなければならないということかも。でもそれによって原発危機が引き起こされるなら、やはり立場のためだけに働いてはいけないのだろう。

しかしこの話法がここまで浸透しているからには、それなりの理由があるはずで。思うに、その話法を使用することで領域内のコミュニケーションは簡便になる。言語のもつ根本的なコミュニティ形成力(諸国の言語、世代の言語、仲良しグループのあだ名、etc)は便利で非常に有効だが、簡便さと引換に「真実へのしがみつき」を失ってはならないということだろうな。
何にせよ高等教育機関で行われていることが、結局「話法の形成」にしかなっていないなら何のための教育か。

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